ヤンキーのケイタイ君


(2ちゃんねる) 
私の弟は28歳で亡くなりました脳疾患持ちで、合併症により15歳まで生きられない、20歳まで生きられれば幸いと、医者からは言われていました。

よくぞ28歳まで生きたものです。弟が小学5年生のとき、無理を言って普通学級に編入させてもらったときのこと。

弟にケイタ君という友だちができました。家庭に事情のあるケイタ君は、5年生ですでにゲームセンターに入りびたり、タバコを吸うような早熟な不良でした。

そんなケイタ君、なぜか弟の面倒だけはとてもよく見てくれました。

子どもは残酷なもの。クラスの中に呼吸器を引きずったクラッチ付きの子に、決して寛容ではありません。

弟は男の子からも女の子からも、陰湿なことをされました。しかし、それはケイタ君がそばにいない時だけでした。

「ケイタがね、『いじめられたらすぐに俺に言え、お前は俺の舎弟だからな』だって。でも舎弟ってなんだろね。子分のことかな?」
弟はいつも家に帰ると、母と私にそう言ってました。

修学旅行に行く途中で弟がそそうをしてしまったとき、一斉にはやしたてた同級生を尻目に、ケイタ君はシモの世話さえしてくれたのです。

6年生の男の子がです。卒業した弟が養護学校中等部に入ると、ケイタ君は一層気合の入った不良になってました。

だけど、養護学校の催すバザーに来てくれたり、生徒たちによるフォークダンスへの参加さえもしてくれました。

なぜケイタ君のような優しい子が、不良と呼ばれるのだろうと思いもしました。

その後のケイタ君、何をやったのか、16歳のとき警察に連れて行かれ、噂では少年院に入院したとのこと。

それから東京に行ってしまったとも聞きました。とにかく、ケイタ君とはそれっきりになってしまったのです。

弟が死んだとき、28歳の短い生涯を象徴するように、身の回りの持ち物は極めて質素なものでした。

そんな所持品の中に、きっと弟が大切にしてたであろう木箱がありました。

そっと中を開けてみて、私は胸しめつけられる思いに陥りました。

弟が死んだ時、私も両親も、悲しみよりも「やっと楽になれたね、よく28まで生きたね」と落ち着いた気持でその事実を受け容れました。

しかし、弟の身の回りの持ち物、その中の木箱を開けたときに、母も私も胸しめつけられる思いに陥り、涙が止まらなくなったのです。

木箱の中には、弟の宝物がいくつか入っていました。

一枚の写真と数通の手紙は、薄紙で包まれとりわけ大切そうにしまいこんでありました。
写真は、弟の養護学校時代のものです。

弟の隣に寄り添い、腕を組み、カメラマンにガンを飛ばす金髪少年が写っています。

そうなんだ、ケイタ君、私たちが知らないときにも、弟のいる養護学校に訪ねてくれてたんだ。

手紙は、いずれも便箋1枚に少ない字数のものばかりです。

「おまえはいつでも俺の舎弟だ」とか「早く元気になれ、ドライブに連れってやる」とか「寂しくなったらいつでも言え、すぐ俺が来る」とか、どれもこれもがつたないけど、弟を強く励ます一行二行です。

母と私は、それらを前にしてたたずみ、あふれる涙をこらえることができなくなったのでした。

ケイタ君、今どこにいるのですか?幸せにしていますか?私は、今、すごく君に会いたい。会ってすぐにその手を握りたい。

PALAN

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